基準を知らなければ自由は与えられない
田嶋幸三さんがJFAアカデミー福島についお話しされた際に、
『なぜもっと自由にやらせないのか?』と言われる事があるが、『基準を知らなければ自由は与えられない』とデュソー氏は言っている。
とおっしゃっていました。
このデュソー氏の言葉について、もっと正確に詳しくお聞きしたかったので、JFAアカデミー福島のスタッフに問い合わせてみたところ、
デュソー氏が言う、『基準を知らなければ自由は与えられない』という意味は、選手に対しまずは「サッカー」の基本、原理原則を教えてあげなくてはならないという事です。
選手に「自由なプレー」をさせるという意味も、好き勝手にプレーをさせるという事ではありません。
と返事をもらいました。
この「基準」とは「サッカーの基本」「原理原則」を指していて、例えば、
- ボールを取られたら取り返す
- 自軍ゴール前でドリブルをしてボールを失い失点をする
- 自軍ゴール前で不用意な横パスを簡単に相手に取られる
- 無謀なドリブルをしてボールを失う
というようにサッカーをする上で、
- しなければならない事
- してはいけない事
- 知っていなければならない事
だそうで、
知らなければ教えてあげなくてはなりません。
それをオーバーコーチングであると捉えるのは違います。
とありました。
この「『基準』を教える事」が、Technical news Vol.22 P.28に書かれている、
育成のサッカーはしつけである!
という言葉の「しつけ」にあたるんですね。
また、「自由なプレー」については、
まずは正確な判断・技術を取得させた上に それぞれの選手がクリエイティビティーを発揮する事が大前提です。「正しい判断」「技術」があるからこそ、そこから創造性のあるプレーが生まれるのです。
とありました。
日本には「自由」という意味の言葉はひとつしかありませんが、海外には、
- 野放しの自由
- 与えられた自由
- 勝ち取った自由
などを表す複数の言葉があります。
「しつけ」がなされていないまま、正確な判断が出来ないまま与えられた「自由」は、「野放しの自由」で、どんな社会にもあってはならない「自由」だと思います。
ちなみに「しつけ」とは、英語に翻訳すると"training"と"discipline"だそうで、そもそも「躾」="training"なんですが、厄介な事に"discipline"は「規律」と訳されてしまうんですね。
サッカーでは"discipline"を「規律」と訳さず、「躾」と表現して欲しいと思いました。
Comments
comments powered by Disqus